日比野克彦の作品が評価される理由。芸術の社会的な役割について

日比野克彦の作品が評価される理由。芸術の社会的な役割について

どことなしキッチュな作風が特徴的。特にダンボールの作品なんかは、誰にでも出来そうといって軽く見られがちな面もありますが、僕はアーティスト日比野克彦をとても尊敬しています。

どんな作品を作っているかについては、画像検索でググればあれこれ出てくるので参考までに「日比野克彦 作品

さて、それではこれから「なぜ尊敬しているのか」ということを手の動くままに語ろうかと思うんですが、その前に芸術の定義をハッキリさせておかないと伝わるものも伝わらないと思ったので、まずは僕の考える芸術の定義についてのお話をします。

結構長いですが、最後のまとめをサクッと読んでから疑問に思ったことをちょいちょい掻い摘んでいく感じででも読んでもらえれば、何かしらの刺激になると思います。

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芸術とは何か

表現者と受け手の関係

日比野克彦氏は、「受け手の感受性を刺激する」という芸術作品の持つ機能を、社会でどう活用出来るのかということを大きなテーマに掲げて活動を続けています。

最近では障がい者とのコラボで共同制作を行っていて、その様子の一部が動画で紹介されていました。

動画では「障がい者が作る作品だから素晴らしいという考え方は間違っている」という話が語られていましたね。

感情的には概ね同意ではあるものの、芸術とは伝える人ありきだということは忘れてはならないと思います。作者が障がい者であるということは、作品の見方に少なからず、嫌でも影響します。

作者と作品は、それを見る人にとっては切っても切れない関係であるというのが僕の意見で、もしそうでなければ佐村河内のゴーストライターのスキャンダルはそれほど騒がれなかったはずです。

何かを表現する人と、それを受け取る人がいる。芸術作品はそういったコミュニケーションの形を取っているからこそ、感動できるし、愛されるのだと思います。

作品の良し悪しと同じくらい、誰が作っているのかは受け手にとって非常に重要だということです。

芸術は自然の美しさを目指す

芸術という言葉ほどフワフワして地に足のつかない概念も珍しいですね。

なぜこれほどまでにアートという言葉がフワフワしているのかという謎は、次に引用するサイトの記事が秀逸に言い得ていると思います。

 
◆「オリジナリティ」や「創造性」は自然や神にしかない

もともと「芸術」(art、ars)という言葉には、「技術」という意味しかありませんでした。
 大きく捉えても「芸事」「おけいこ事」くらいで、要するにその修練が大事だったのです。

 「芸術」には、ことさら「オリジナリティ」「創造性」が強調、重要視されていますが、「オリジナリティ」(originality)の元の言葉である「origin」=「万物の源泉」の資格や、物事を「創造」(creation)する能力は、神や自然のものであって、人間には絶対認められていませんでした。

 また「芸術」(art、ars)ということに必要とされていたのは、自然をまねること=学ぶこと、過去の優れた達人をまねること=学ぶことであって、ひたすら優れたものを模倣することが尊ばれていたのです。

◆「所有権」の絶対視が人間を創造主に仕立てた

 では、いつ現代的な意味での作者の個性を重視する「芸術」の概念が生まれたのかといえば、それは18世紀のことです。

 この頃、重農主義によって、自分が畑を耕してその作物が市場での富を生み出すことが広く行き渡ります。
 そして、富の源泉は、自分の労働にあって、その成果である富は、自分の所有物であるという所有権の観念が発達しました。 

 それまで、富を生む「もと」は、「自分以外」の何か、誰かにあって、決して自分ではなかったのです。
 
 所有権が万物に認められるようになると、それまでは一つの技術でしかなかった「芸術」の概念が転換します。
 つまり、自分の芸術作品の源泉=オリジナリティーや、創造性の在処=「所有者」としての自分の個性ということが絶対視されるようになり、「芸術」の概念自体も何事からも束縛されない=自立した絶対的概念へと変化していったのです。
引用:「芸術」は私権の共認が生んだ観念の一つ

とても興味深い内容なので、暇があればぜひ全文を読んでみてください。

引用した文章では、本来神や自然のものであった芸術を、人々が自身の生活に活かし始めた理由と経緯が説明されています。

「芸術とは何か?」という問いについて、一般的に明確な定義が存在しない理由は、「芸術とは本来自然の美しさそのものを表現した言葉である」という点で説明できます。

「芸術とは何か?」を「自然の美しさとは何か?」と言い換えると、その答えは絶妙で壮大な均衡、バランス感覚とでも言うのでしょうか。

上からか、下からか

これらの歴史的な背景を知ると、紹介した動画で日比野克彦氏が語っていた「フラットな解釈」という言葉の重みが一層に増しました。その考え方は、自然の絶妙なバランスとイコールの関係にあるように思えたのです。

彼は障がい者の人たちに対してその言葉を使っていましたが、日常、あらゆるものに対して「フラットな解釈」を持つことは難しいことです。

奢り、卑屈さ、妬み、恐れ、不安、執着、羨み、それらの感情を誤魔化さずに、物事を素直にフラットに受け入れて表現できることなど、日常にどれだけあるでしょうか。

そう考えると、人の行為には常に美しさと醜さが評価されることに目が行きます。それは、人の行いの中にもある種の芸術性が認められるということではないでしょうか。

コミュニケーションの装飾

さて、ここで改めて、日比野克彦氏が大きなテーマに掲げている「芸術の社会的な役割」「人の想像力の可能性」について改めて考えてみようと思います。

  • 芸術は、コミュニケーションのひとつの形である
  • 芸術は、本来自然の美しさを目指している
  • 人の行いの中にもある種の芸術性が認められる

以上のことから、僕自身は現代の芸術を「コミュニケーションの装飾」と広義に捉えています。芸術の意味を広義に捉えるならば、人の行い全てに芸術の力が介入する余地があるということです。

より身近な例で言えば、今日出会った人の服装に良くも悪くも印象を受けるし、しぐさや表情に安心感や恐怖を覚え、言葉に癒されてたり傷つけられたり。

伝えたい事をどう伝えるかをみんなが考えなければならないし、意図せずとも伝わったことが何かしらの結果を招くことは多いです。

芸術の持つ影響力を作品という形で世に送り出す人のことをアーティストと呼ぶのだと、僕はそう考えています。

まとめ・なぜ日比野勝彦の作品が評価されるのか

感じたままに言えば、童心に帰れるというか、子どもの頃の積み木遊びを思いだすような刺激に襲われるので、僕は彼の作品が大好きです。子どもの頃の想像力の凄まじさったら、きっと誰もに思うところがあるでしょう。

しかし、なぜこれほど高い評価を得ているかという点については、好き嫌いは棚に上げて考える必要があります。世間的に評価を得ているが好きではないということは良くあります。

その理由は、表現したいこと、やりたいこと、伝えたい事を明確に持っていて、飽くまで受け手の事を考えて作品を作り続けているところに尽きると思います。そしてその辺が、現代アートの難しさですね。

作品を作る技術的なところは当然あるものとしての話ですが。

芸術が社会でどう機能していくかというプロジェクトにしてもそうですし、障がい者とのコラボもそうです。社会のために、芸術のために、そういうところが非常にアーティスティック。

だから僕はアーティスト日比野克彦をとても尊敬しています。

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